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全国空襲連は2020年11月18日、臨時国会で「空襲等被害者救済法案」の成立をなんとしても目指すべく、緊急の総決起集会を衆議院第二議員会館で開催しました。
開催概要はこちら➡「【総決起集会のおしらせ】今国会での空襲等被害者救済法案の成立を期す!(2020年11月18日開催)」
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11・18総決起集会アピール
戦後75年―今国会で必ず「空襲等被害者救済法」を制定し、被害者に安らぎを
コロナ問題で開け、暮れようとしている二〇二〇年は、第二次大戦終結から七十五年、日米開戦からでは八十年目の「節目の年」である。戦争を体験した国民は、日本の指導者も諸外国のように平和への決意を表明するものと期待した。しかし、安倍、菅両首相とも、何も語らなかった。
そんな中で新聞やテレビは、八月十五日の「終戦の日」を中心に、戦後七十五年を考える多くの報道を行った。NHKはテレビドキュメンタリー『忘れられた戦後補償』と題し、「国家との雇用関係がなかった」として元軍人や軍属と区別され、いまだに国の援護が受けられないでいる民間の空襲被害者の戦後を追い、大きな反響を呼んだ。
番組で取り上げられた浜松市の木津(きづ)正男(ただお)さん(94)は十八歳だった一九四五年六月十八日未明、自宅で空襲に遭い、全身に油脂焼夷弾の炎と破片を浴びた。手術中に気を失い、意識が戻ったのは五カ月後。戦争は終わっていた。三年ほど療養のあと、家業の電気関係の町工場を継いだが、ケロイドは体のあちこちに残り、背中の痛みはいまも消えない。
その木津さんの右手を突然、激しい痛みが襲った。昨年の八月十五日の「終戦の日」だ。レントゲンに小さな黒い斑点が幾つも映った。木津さんはすぐ「焼夷弾のせいだ」と思った。診断は手の甲の皮膚がん。薬で押さえていたが、ことしの夏、手の傷口から大量に出血した。八月十四日、右手の甲の皮膚をはがし、腹部の皮膚を移植する手術を受けた。
今月六日の誕生日に「戦災者 木津正男」として不自由な手で手記をしたため、親しい人たちに送った。「空襲のために七十五年も苦しんできて、そのうえ、皮膚がんとは…。俺と俺の体には、まだ『終戦記念日』は来ない。不幸の連続です。生きている間に幸せが来るよう願っています」
せめてもの願いは、国が始めた戦争の被害者だと法律で認め、ちゃんとわびてくれることという。
国は民間人も戦争に動員して大きな犠牲を強いたのに、戦争が終わると身分の違いや財政を圧迫することを理由に軍関係者だけに補償し、裁判所は「みんな苦労したのだから我慢せよ。救済は立法で」と門を閉ざした。その救済法案は過去に十四回も国会に出されたが、すべて廃案になった。そんな国は第二次大戦の当事国では日本だけだ。他の国は長年、官民を差別しないで援護している。
新たに被害者が求めた「空襲等被害者救済法」(略称)制定に向けた審議が、開会中の国会で始まろうとしている。「存命の重度の空襲障がい者に五十万円の一時金支給」などと十分な内容とはいえないが、戦後七十五年も無視されてきた民間空襲被害者の権利の回復には大きな一歩だ。
『忘れられた戦後補償』の中で、救済法制定を引っ張る超党派空襲議員連盟の河村建夫会長は「空襲被害者の問題は、戦後の総決算(の問題)として、放置すべきではない」と述べた。
そして番組は、政府や国会、国民にこう問いかけて終わった。
「国家が遂行したあの戦争で、あまりに多くの人が犠牲になり、あまりに多くの人が痛みを抱えたまま生きることを強いられました。国も私たちもその責任から目を背けたまま七十五年目の夏がまた過ぎ去ろうとしています」
私たちは求めます。戦争被害に与党も野党もありません。この国会で必ず空襲等被害者救済法を制定、老いた被害者たちの人生に安らぎを与えてください。そのときは、もういましかないのです。
二〇二〇年十一月十八日
全国空襲被害者連絡協議会
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