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Q2.空襲被害者は、どのような被害を受けたのですか。
アメリカの日本本土への空襲は住民の殺傷自体が目的でした
岩波新書「空爆の歴史一終わらない大量虐殺」(2008 年8 月)などの著作者荒井信一名誉教授は、東京地方裁判所で提出した意見書で、日本本土空襲は「戦力の基盤としての住民の殺傷自体が目的であった」ことを明らかにしました。
6都市工業地減に対する焼夷弾攻撃は時期的に次のように区分されます。
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日本本土空襲の被害
1945年3月10日から本格化した日本本土への絨毯爆撃は、民間人の密集する大都市へ大型爆撃機B29の大編成による焼夷弾の無差別攻撃でした。
1945年3月10日未明の東京大空襲は327機のB29が東京下町地域に焼実弾(ナパーム弾)33万発1665トンを投下し、死者は推定で10万人以上、負傷者は4万人、消失家屋は26万8000戸、被災者は100万人にのぼったといわれます。その火炎の煙は上空7000 メートルにも達し、B29の機体が600~900メートルも吹き上げられたことが米軍側の記録にも残っています。
終戦時に、空襲により市街の70%以上焼失した都市は31市、死亡した非戦闘員は40万人とも60万人ともいわれています。これには、広島、長崎の原爆死者約21万人は含まれていません。
親を失った空襲被災者
戦争孤児がたくさん生まれました。一家全滅の例も多かったのです。
当時15歳だった東京大空襲訴訟の原告の一人は、宿直勤務から亀戸の自宅に帰ったところ、焼け跡に父の近所の人がたちつくしており、80人ほどの隣組のうち生存者は5人だけだったと述べています。
当時9歳で孤児となった原告は、父母・隣に住む叔父家族5人が死亡し、弟、従弟と3人、兄夫婦に引き取られたが、兄の子と差別され、小学生の時に、空腹と寂しさと不安でどうしようもない中、自分は生きていてもしょうがないと感じ、衝動的に、京急線の蒲田駅前の踏み切りに走って飛び込んで死のうとしました。
学童期以下で孤児になった被災者は、親戚などに預けられましたが、その多くは厄介者扱いされ、十分に教育の受ける機会も与えられませんでした。その結果は、取り返しのつかない損害として生涯に及んでいます。
重傷をおった被災者
空襲により重傷を負い、今も苦しんでいる被災者も多くいます。後遺症が残っている人たちも多くいます。
機銃掃射により、右腕切断の手術を受けざるを得なかった被災者、焼夷弾により右全手指機能全廃の障害を負った被災者、焼夷弾でうけた傷口が化のうし、腰に挙が入るほどの穴が残った女性被災者、顔面や手などの大火傷を負いケロイドが頑固に残った被災者など様々です。
これらの人々は、身体の傷とともに、空襲の際の恐怖が心にトラウマとして残り、これから逃れられないでいます。
それぞれの被災者は、一人で耐えるにはあまりに重い人生を歩んできました。これらの被害を放置したままにすることは許されません。
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