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【援護法Q&A 5】受忍論はどのようにして生まれたものですか。

Q5. 受忍論はどのようにして生まれたものですか。


「受忍論」とはどういうものですか

「受忍論」というのは、国家の非常事態である戦争では、皆被害を受けたのだから、生命・身体・財産に何らかの被害を受けてもそれは受忍(我慢) しなければならないという理屈です。

戦争被害については、この受忍論により多くの空襲被害者等一般戦災者への補償が拒まれてきました。

受忍論の系譜

この受忍論は、最初、在外財産の補償問題についての1968年(昭和43年)11 月27日の最高裁判決で示されました。この段階では、生命・身体・財産被害を受忍せざるをえなかったという戦前から占領中にかけての国民のおかれた事実状態を裁判所が指摘し、財産損害については憲法上の請求はできないという判断を示したに過ぎないとも考えられました。

ところが、韓国原爆被爆者に被爆者手帳を交付すべきとする最高裁判決(1978年)が出された事態に政府は、原爆被爆者基本問題懇談会(座長茅誠司)を設置し、その中で官僚が委員らに「財政難をもたらす」と被爆者援護法の制定に反対し、1980年(昭和55年)12月11日に出された意見書では「およそ戦争というその国の存亡をかけての非常事態の下においては、国民がその生命・身体・財産等について、その犠牲を余儀なくされたとしても、」「全て国民がひとしく受忍しなければならない」と、被爆死した人への弔慰金や遺族年金の創設を否定する一般的な政策論を謳いあげました。その中では軍人軍属を優遇する理屈が述べられ、1984年(昭和59年)12月21日の戦後処理問題報告書にもこの論理が引き継がれました。

そして、最高裁判所は、空襲被害者についても、1987年(昭和62年)6月26日の名古屋空襲訴訟の判決で「戦争犠牲、戦争損害は、国の存亡にかかわる非常事態のもとでは、国民のひとしく受忍しなければならなかったところであって、これに対する補償は憲法の全く予想しないところ」という判断を示したのです。

裁判所の変化

このように司法と行政により、戦争被害の補償を行わないのは、「受忍論」の名のもと、当たり前のこととして、確定したかに見えました。

しかし、最高裁も戦傷病者・戦没者遺族等援護法の適用範囲の一定の拡大など、不十分ながらも戦争被害者への補償が拡大したのを受け、1997年(平成)9年のシベリア抑留者判決では、「補償の要否及び在り方」「については、国家財政、社会経済、戦争によって蒙った国民の被害の内容、程度等に関する資料を基礎とする立法府の裁量的判断に委ねられたものと解するのが相当である」と判示するに至りました。

受忍論に立たない1審判決

そして、東京空襲に関する2009年12月14日の東京地裁判決は受忍論をとらず「一般戦争被害者に対しても、軍人軍属と同様に、救済や援護を与えることが被告の義務であったとする原告らの主張も、心情的に理解できないわけではない」とし「一般戦争被害者を含めた戦争被害者に対する救済という問題は、様々な政治的配慮に基づき、立法を通じて解決すべき問題」と判断しました。更に2011年12月7日の大阪地裁判決は、「戦争被害に対する戦後補償の問題を見ると「戦後被害を受けた者のうち、戦後補償という形式で明確に補償を受けることができた者と、必ずしも、戦後補償という形式での補償を受けない者が存在するという状態が相当期間継続しており、上記の差異が憲法上の平等原則違反を全く生じさせないと即断することはできない」 とし、更に「政策的観点において、他の戦後補償を受けてきた者と同様に、原告らに対する救済措置を講ずるべきだとの意見もあり得る」としました。

立法府の役割

裁判所は、国に損害賠償を命ずるところまで踏み込んではいませんが、立法が存在しないことが当然とは見ていません。立法府の役割が期待されます。

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